テーマは「停止」と「??」若者にとっては絶望的?いいえ、全ての人が絶望にまみれるもしも話、困惑と絶望の中で生き残る術を学べます 『サバイバルファミリー』 監督 矢口史靖

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映画 その他

こんなことを考えている方にオススメ!!

  • 日々に漠然とした不安がある……
  • もし、色々できなくなったらどうすればいいんだろう……?
  • 原始的な知識や道具なんてなんも役に立たないよ……

映画を見れば……

そうか!希望が見えてきた!!

となります。

突然ですが、クイズです。

私の今書いているブログを見るのに絶対必要なものはなんでしょうか?

え?根気、やる気、下手な文でも喜んで読むことができる精神力の強さ……?いやあの……そういった精神論的な問題じゃなく……。(自分で書いててちょっと悲しくなりました

ネット環境?スマートフォン?パソコン?

いいえ、もっと根本的に大事なものがあります。

正解は電気です。

電気がなければ、動かないものは世の多くを占めており、脱炭素、脱原子力などの目標は掲げているものの、いまだに人類は電気からの離脱をなしとげられる兆しはありません。新しい発明をしたとしても、大前提に電気が置かれることは多いのです。新しいエコエネルギーみたいなことがあっても「どうやったら電気に還元できるか」という方向に行きがちですね。

さて、ここからが本題です。

もしもこの電気を全く使えなくなったらどうなるか?

「充電しておけばいいじゃん」とか「そういうときの予備電力があれば……」とおっしゃる方、もう1度言います。

電気が充電できなくなったら?」ではありません」

電気が使えなくなったら?」です

究極的にネガティブな考えですが、世界全てに関わるもしも話と言えるでしょう(よほど原始的な生活をしている辺境の部族とかなら話は別ですが)

果たして人は生残されるのか?世界はどうなってしまうのか?

今回は突然降り掛かったそんな世界を生き残った家族たちの物語です。

あらすじ

突然、本当にその日は突然訪れました。

電化製品がすべて動かなくなってしまったのです。車も電車も動きません。スマートフォンも電灯もつきません。水やガスなどのライフラインも止まってしまいます。人々は戸惑いながらも楽観的に考えていました。「やがて落ち着くだろう」「どうせすぐ解決するだろう」と。いえ、考えるしかなかったのかもしれません。

しかし、待てども待てども、電気は繋がらず、それこそ電気のように人々の生活が一時停止をしました。

東京に住む鈴木一家もまた、困惑していました。父親である義之の会社は仕事にならないとしばらく休みになり、学生だった賢司や結衣もまた授業がなくなり、家にいる以外何も出来ません。食事などはロウロクで明かりを灯し、スマートフォンが繋がらないことで娘はいらつきはじめ、そして、食材や水の暴騰、トイレや水道の停止なども起こり、このまま家に住み続けることですら困難になってしまいました。

テレビやラジオ、その他情報網も全く途絶えている中で、西日本は電気が繋がっている、という情報を知り、ちょうど母親である光恵の実家が鹿児島にあるので、一家全体で向かうことになりました。

ただし、飛行機はおろか、電車も車もろくに動かないので、移動手段は古い自転車、そして足のみです。

様々な困難や障害、そして、思いがけない出会いから技術の不便さだけではなく、家族同士の問題へ向き合っていくことになります。

世界の移り変わり

「考えることは皆同じ」という言葉がありますが、やはり有事の際は生活必須品の値段が上がっていくものです。以前、震災の際、水や食料を現地で高く売りさばく人が問題になったり非難されたりしましたが、もはや全国規模になってしまうとそのような余裕はなくなります(そもそも観点が違うのかも知れませんが)

電気がほんの数時間使えなくなるだけで、経済ダメージは計り知れないと言われている世の中で(といっても現代と比べると少しだけ前の時代ですが)何日も使えなくなったら人々が途方に暮れるのも無理はないでしょう。

そして、多くの人が都会を離れ、田舎へ身を寄せる大移動が始まります。都会は閑散としていき、街はゴミだらけ、すれ違う人は多くなり、日常から非日常へ変わっていくのです。

昔の映画ですが、都会の機能が停止するというのは今のコロナに通じるものがあります。もちろん、コロナは完全な逃げ道はどこにもないかもしれませんが、世界が変わる対策というのは常に考えていきたいものです。

サバイバルの備え

日本では水に恵まれていると言われていますが、浄水なども高度な技術や道具に支えられている部分はかなり大きいです。そして多くの技術は電気に支えられている部分が多く、映画内では当然、水の枯渇、そして価格暴騰していきます。

食べ物も車などの輸送手段が使えないので当然、ストップしてしまい、一家はたびたび食糧調達問題に直面します。

中には飢えや渇きに堪えられず、手を出してはいけないものに手を出して結局さらに苦しい場面に陥ってしまったりと想像以上に深刻な問題となりました。

災害に備え、真っ先に言われるのは水であれ食料であれ「貯める」ことですが、できればこういった自体に備え、最低限「作れる」備え、あるいは技術があるといいなと思いますね。

ちなみに著者が適当に調べたところ、浄水器などは発達していて、災害に備えて泥水を真水(飲料水ではないですが)することもできているそうです。また、子供の夏休みの宿題レベルで簡易的な浄水器は作れるらしいですが、やはり飲水としては推奨されません。(バイキンなどが残ってしまうみたいです)

水道水がお気楽に飲めるほど(海外では飲料水は買うのが常識みたいです)日本は「水」に恵まれているとは思いますが、だからこそ、日本全体を巻き込むような災害の時は一番、難しい問題になるかもしれません。

捨てて見えるもの

散々言ってきましたが、電気がなくても人は生きることは出来ます。もちろんすべての人は生きるのは難しいですし、電気という文明の源がなくなった時、改めて見えてくるものが色々あります。

適応力の高い人達は災害時に備えた食料を探したり、電気がなくても動かせるものを活用したりと様々な動きが見えました。

「一つ技術を落として使えるものを探す」といったところでしょうか。歴史を学ぶということは同じ失敗を繰り返さないためという側面を強く言われていますが、災害時に使えるものを増やすため、という側面もあるのかも知れませんね。(実際、何かが使えなくなるという緊急時にこういった動きはよくあります)

技術的な面だけではなく、人間関係的な面でも同じことが言えます。よく現代社会は人の繋がりが薄いと言われていますが、理由の一つに「色々な技術が発達し、一人でも生きていけるようになったから」というものがあります。

災害時に一人でどうにかできる人なんて全体の0.01%もいないでしょう(作中で一人出ますけど)どれだけ世を儚く感じていても「生きたい」と願えば、人と協力せざるを得ないのです。

もちろん完全に良いこととはいいませんが、全体的に悪いとも言いません。

あまり起こってほしくはない災害ですが、バネが強く弾けるのは強い力を必要とするように、このような大災害が起きて、人の技術が強制的に少し前に戻された時、新しい技術や価値観が生まれるきっかけになるかも知れません。

そこまで行かなくても、個人レベルでなにか希望を見いだせるのかもしれませんね。

鈴木一家も物語の中でまた大きく変わっていくのです。旅が最後どのような結末で終わり、どうなっていくのか、もちろんネタバレなので伝えられませんが、確実に「変化」を感じることが出来るでしょう。

総評

すごい予算が組まれているわけでもなく迫力のあるシーンなどもあるわけではないですが、世紀末的な雰囲気と絶望的な状況、そしてそのような中でもどこもコメディチックを感じさせる映画でした。

電気が使えないというのはもちろん嫌ですが、高速道路を歩いたり、無人の場所を突き進んだりと普段では出来ないようなことをしていてちょっと憧れる部分もあります。

「考えることは皆同じ」「食べ物や水の貴重さ」といった教訓めいたことも作中で数多く出てきて、日常からの非日常への転落としてはなかなかおもしろい題材です。

とりあえず、私は食べられる野草と浄水器の作り方を調べておこうと思いました。

もう一つのテーマ

「変化」です。恐ろしく変わっていく世界と人、そして決して元には戻りません。それがどういう意味かはぜひ見て確かめてみてください。

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