『バカと無知』(著:橘 玲さん)を紹介します。そもそもバカとか無知ってなんでしょうか?知らないことは何というのでしょうか?ちょっとネガティブに探してみましょう。

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一言で

バカと無知への対処法、教えます。

どんな本?

ざっくり言えば著者が人間、あるいは世の中のいわゆる、馬鹿と呼ばれるような人々、そしてなぜ人は無知となってしまうのか、という論点について主に語る話です。

とはいえ、特定の誰かが馬鹿と責めたり、無知と決めつけるような本ではありません。人間そのものにある、馬鹿の性質と無知の性質を語る本です。(まるっきり批判がないわけではないですが)

どうして馬鹿な人が存在するのか。そもそも人はどこから馬鹿になるのか?

あるいは本当に馬鹿という一言で片付けていい問題なのか?

読めばきっと自分の無知さを知ることになるでしょう。しかし、絶望することはありません。

人類すべてがそもそも、馬鹿で無知であることから逃れらないことに思い知ることになり、そしてその時こそ、誰もが知るとある行為価値を知ることになるのです

おすすめポイント

正義は娯楽、優劣は報酬、信用は怠惰、信頼は服従、そして記憶はすべて偽物

馬鹿が何か……と言う前に、この本の中では、タイトルのように人々が「良い」と思うものをけちょんけちょんに否定しまくります。

それこそ「何を馬鹿な」と反論したくなる気持ちはわかります。しかし、あなたは心覚えがないでしょうか?

悪いものを責める人が楽しそうことはないですか?

自分より劣る人間を「あいつよりマシだ」と安心したことはありませんか?

「あいつなら大丈夫だ」と任せてそのままにしたことはないですか?

「友達なんだから」「家族なんだから」とやってもらって当然という感情を抱いたことはないですか?

そして……あなたが過去を語ったときに、「それは違う」と昔からあなたを知る誰かに否定されたことはないですか?

さて、どれほど当てはまったでしょうか?まるっきり当てはまらない……という方がいても正直私は信じられません。ただ、「悪」と言いたいわけでもありません。

「娯楽」「報酬」「怠惰」「服従」「偽物」これらは客観的に馬鹿だったり無知を生み出す原因に見える存在ですが、当人にとっては正しいことをしているという認識が生まれても不思議ではないということです。

価値観……と乱雑に片付けられがちですが、正しいこと、悪いこと、賢いこと、馬鹿なことと考えるととたんに話がややこしくなり、単純に馬鹿や無知と決めつけると争いのもとになりかねません。

知らないほうが幸せだった……と思えるかもしれませんが、それは仮初の幸福に過ぎず、いつ崩れ去るかわからないのです。

このやっかいなものは価値観もそうですが、個人差もあります。

馬鹿はどこから馬鹿?何を知らなければ無知?

たまにニュースで出てくるお馬鹿な犯罪、あるいは無責任すぎる迷惑行為などわかりやすい馬鹿な行いはありますが、「ではどこから馬鹿となるのか?」というのを答えられる人はいないでしょう。

この本を読めば、わかる……と言いたいですが残念ながら逆です。

人が思っている想像以上に、明確に馬鹿を決めるのが非常に難しいことがわかります。

そもそも、そんなもの時間と視点によっていくらでも変わります。一見、馬鹿なような行いに見えても、あとから見てみれば非常に合理的な考えだったり、恐ろしい発明と思っていたものが実は全部嘘だったり……(昔、新しい細胞が発見されたと大騒ぎしていましたが愚かなのは発見した人間だったのか騒いだ人間だったのか未だにわかりません)

厄介なのは、馬鹿な人ほど、自分が馬鹿だと思っておらず、賢い人ほど、自分を賢いと思っていないことです。もちろん、自分が馬鹿だと思っている人は絶対に賢いというつもりはありませんが(私みたいに)、故に様々な弊害が出ます。

わかりやすいのは新しく学ぼうとしないこと、あるいは複雑な問題を簡単にしようとしたり、相手が絶対に間違っていると思いこんでしまういわゆる馬鹿な人が大きく主張し、そして賢い人ほど従ってしまうなんて悲劇は歴史を振り返ると意外に多いものです。

そして、人は多くいるのに結局は間違った回答に進んでしまう、そして事情を知らない人間からは「全員馬鹿だったと思われてしまうという事態に発展します。

そう考えていくと、馬鹿な基準をうっかり人に話してしまうと馬鹿と思われるという妙な悪循環さえ生まれてしまいそうです。

最も、悪いことだけでもないのが困ったことですが。

人の性

「自分は大丈夫」「自分には関係ない」

どこか人はそんな安全を求めていますが、結局遺伝子的に避けられないもの、というのは存在します。そうでなければ人類は生き残れなかったので副産物のようなものでしょう。

最も、この人の性というものも突き詰めるとなかなか不安定なことをこの本では教えてくれます。

子供は純粋か?

差別はどこから生まれてしまうのか?

偏見は人は必ず持ってしまうのか?

道徳は「貯金」されてしまうのか?

すべてこの本に書いてある内容であり、そしてほぼすべての人が突きつけられるでしょう。どれだけ、理性を持とうと、人の性は人である以上逃れられないのです。

そして、ここに「馬鹿」であること、「無知」であることの必要性が存在します。世の中の膨大な情報、そして見続けては精神的に病んでしまいそうな闇をシャットダウンするために、人はときに馬鹿のように振る舞い、そして無知を使って切り抜けるのです。

しかし、人々は馬鹿や無知を歓迎しません。この人の性である以上、仕方ないはずの手段は結局は諸刃の手段であり、人々はこの集団を使った者たちを傷つけるのです。

じゃあ、どうすれば良いのか?人の性を受け入れるというのはどういうことか?非常にありきたりですが、ここまで知ってこそ価値のある対処法があります。

注意点

この方の別の書籍に『言ってはいけない』という物があるのですが、本作もまた、その性質を非常に受け継いでいると言えるでしょう。

ポジティブな方に関しては読むのが非常に辛いのは言うまでもありませんが、ネガティブと自覚している人にも思わぬ痛みを感じるかもしれません。

本でこういう事を言うのもあれですが、辛くなったら一時的にお休みを取ったり楽しいことをして気を紛らわすのがおすすめです。

ただし、その「言ってはいけない」ことの中には、真のポジティブ、そしてネガティブを知るヒントがあるでしょう。

最後に

結論としては、人はどれだけ学ぼうが才能があろうが、完全に馬鹿や無知をなくすことはできないのでしょう。

もし、このすべてを知ることができるような知恵、そして1から1000を学べるような頭脳があったとしても、結局、知らない人の気持ち、1から1を学ぶ人の気持ちまではどうやってもわからないからです。

(わかっているように見えてもそれはあくまで1から1000を学べる人による1から1を知る方法に過ぎません)

では、学んだり考えたりすることは無駄なのでしょうか?

そもそも前提から違います

馬鹿や無知は消そうとするのではなく、自他ともに制御するものであり、そのために学んだり考えたりするのです。自分の中の馬鹿や無知の性質を知ることができれば、他人の馬鹿や無知への理解しようとする気持ちはその時こそ生まれます。

じゃあどうすれば学ぼうという気持ちが生まれるのか?

もしかしたらここまで読んでいただいた方には気づいている方もいるかもしれませんが、その方法はこの本の最後にありますので読んでください。

といっても、わずか数ページを読んでも信じられないでしょう。ここに書かれている以上の様々な「馬鹿」と「無知」を知ってこそ初めてその行為に価値が生まれるのです。

それこそが、馬鹿と無知への唯一無二の対処法、すなわち、共存の道へつながるのです。

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