一言で言います
「正しさを疑う」のは「優しさ」です
最初に
正しさ
世の中の真理そのものといっても過言ではないでしょう。人は必ず自分の正しさを信じて生きています。仮に「自分は間違ったことをしている」と思っていても「他にやりようがないから仕方がない」という”正しさ”をもとに行動していると言えますね。
しかし、だからこそ、自分を、そして誰かを苦しめる原因ともなります。
自分の中の理想の正しさと現実のギャップに苦しんだり、自分がいいことと思っていることを他の人がやってくれないことを責めたり……そんなストレスや、苛立ちの原因となっていることに覚えはないでしょうか?
「そんなこと言ったって正しくなるには努力や苦しみも必要でしょう?」
もちろん、そのとおりです。でも、逆に考えてみてください。
「これが正しいと思っていたのに……」「これが正しいはずなのに……」
このような絶望感を抱く人も多いのではないでしょうか?正しさを信じて、努力や苦しみを乗り越えてきたりのに自分が思いがけない不運に見舞われた経験もあるでしょう。あるいは、自分の正しさを他人がなかなか認めない、逆にどう考えても間違っている正しさを押し付けられたような経験もないでしょうか?
その正しさは本当に正しいのか確かめる方法に興味はありません?
そんな方々におすすめするのが今回の本である『正しさを疑え』です。
タイトルから「正しさを信じずにアウトローになれ」「常に反骨精神をいだき続けろ」「甘い言葉に惑わされるな」と言われているような印象を抱いてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。
何かを非難するような内容ではなく、全体的に表現も柔らかめで、神経をとがらせるのではなく、むしろ柔軟に考えていき、自分の正しさも、そして周りの正しさも、ときに共存し、そしてときに調和を目指していく方法が書かれた内容です。
イメージとしては凝り固まってカチカチとなってしまい、自分や周りを傷つけてしまう正しさから、より柔軟でいながらも芯をキッチリしている正しさにしていく、そんなマッサージのような本となっております。
この本を読む利点は2つです。
- 正しさをメンテナンスできる
- 正しさに柔軟性をもたせる。
そして何よりも
- 正しさを疑う方法を学べる。
が挙げられるでしょう。
正しさを常に考え、様々なものを加えて調整し、そして、妥協点を探り続ける、この本は正しさを疑うのは正しさを否定するのではなく、正しさを成長させるための方法なのです。
角張った正しさをメンテナンスして、柔軟で和を尊しとする”正しさ”を目指しましょう!!
……正直、この本の内容が理解できれば私のブログいらないんじゃないかなと思うぐらい、感銘を受けた本でした。
正しさのメンテナンス
この本の最初に、「正しさ」はどこから来るのかが書かれています。
「道徳」「人類の経験」なんて言葉が来そうですが、まずは、戦争ですね。偉大なる実績、偉大なる勝利は言うまでもなく勝者によって語られ、やがて「正しさ」になるのです。
敗者の観点から見たらもちろん「正しい」とは言えません。しかし、強いものが正しさを作るのもまた、残酷な真実であり、これを知るだけでも正しさを疑う余地があることがわかるでしょう。
とはいえ、いくら正しさが色々あると言っても、「人を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」といった普遍的なものはどこの世界、どの時代でも、多少の違いはあれど共通している部分も否定できません。
問題はその普遍性があまりにも大きくなりすぎてしまうことです。
昨今だとコロナの日本の事情が言えるでしょう。
この本にも書いてありますが、コロナはたしかに危険ですし、様々な行動を制限されるべきだったのは今更言うまでもありません。
しかし、日本でのルールを決め、そのルールを守っていたのにも関わらず、一定以上の人がより厳しく、具体的には店の運営そのものを自重するようなことを「正しいこと」と信じてしまい、営業していた店をSNSなどで激しく攻撃しました。
結果として、多くの店が大打撃を受け、生活苦になって激しい痛みを背負うことになってしまったのです。
これは果たして「正しい」といえたのか。少なくとも断言はできないはずでしょう。少なくとも攻撃し続けたことを後悔した人もいたのではないでしょうか。
正しさはどこから来るのか、誰がその正しさを望むのか、何より自分が本当にその正しさを貫くことを後悔しないか、本を読んでいけば、間違いなく正しさを疑うことでメンテナンスしていく必要性を感じ取ることができるでしょう。
柔軟なる正しさ
目指すべきは柔軟性のある正しさです。
「自分は結構色々な正しさを認めてるし、よっほど非常識なことがない限り、尊重するよ」と思っていらっしゃる方はおそらくかなり多いでしょう。
正直、私もでしたが、次のエピソードを聞いて愕然としました。
すさまじく狡猾な犯罪者がいました。何年もの間、恐るべき程に巧妙な詐欺の手口を持って、何人もの人から大金をだまし取ったのです。ようやく逮捕され、ニュースに大体的に取り上げられたとしましょう。
あなたはどう思うでしょうか?
日本の多くの人は犯人に嫌悪感を抱き、被害者に同情を寄せるでしょう。
ところが、とある国(本には具体的に書いています)ではむしろ犯罪者を賢い人間と褒め称え、騙された人間を責める傾向になるとのことです。
日本から見ればこれは「間違っている」と怒る方も多いかもしれません。
しかし、彼らにとってはそれが「正しい」以上、変えるのは決して容易ではありません。先にも話しましたが、同じ日本人でさえ、たった一人の意見ですら変えることは非常に難しく、変えたところでメリットは薄いでしょう。
このとき、どうするか?
「そういう考えもあるのか」と思えばいいだけです。大切なのは、誰かが正しいからって別の誰かが間違っているとは必ずしもならないことです。あるいは、自分だったらどういう状態になったら被害者が悪いと思うのか、のような似たようなものを探すのが良いと本には書かれています。
例えば、周りの人間がどれだけ忠告してもうまい儲け話に乗ってしまった、何度も同じ詐欺にあってしまった、そうなってしまうと、だんだん被害者に問題があると考える人も多くなるのではないでしょうか?
「それでも相手の正しさを受け入れられなかったら?」という方もいるかもしれません。
それならそれでも構いません。全部を認められないなら、部分的に認める、ほんの一部分のここだけは認める。そんなことでもよいのです。
先に上げた一見残酷に見える考えも、「犯罪者に負けないように自分も賢くなろう」「常に注意深くなろう」というポジティブな効果があるといえるのではないでしょうか?
理由はどうあれ、この2点だけ見れば、多くの人が「正しい」と考えられるはずです。
さらに言えば、様々な部分を部分的に認め続けられれば、新しい価値観や、アイデアも浮かんでくるかもしれません。
自分の正しさを一度疑ってみて、そして色んな人の正しさを受け入れていけば、自分も誰かを傷つけないクッションのような正しさに変わっていくことができるでしょう。
これはあくまで一例であり、本を読んでいけばこういった柔軟性をさらに身につけていくことができるでしょう。共通点を探す練習、妥協点を探る方法についても色々なものが書かれています。
柔軟な正しさというのは理想的な道徳論であるだけではなく、大きな機会を生み出すことにもつながるのです。
疑うのは「人」ではなく「○○」
本の後半になってくるといよいよ「疑う」方法について詳しい方法を紹介していきます。
読んで学んでいけば、先にも挙げてきた既存の正しさだけではなく、たった今入った最新情報の「正しさ」でさえ疑うことができるでしょう。
とはいえ、信じることをポジティブや美徳と言われる一方、疑うことはネガティブで卑劣と取られがちですので「さあ疑おう!!」と言われてもなかなか難しいかもしれません。
しかし、この本の数々の方法を読めば、ポジティブすぎることもなく、ネガティブすぎることもなく、人を傷つけることもなく、自分を傷つけることもない、疑う方法を身につけることができるでしょう。
紹介されている中で一番大きなポイントを紹介します。それは
「人」ではなく「言葉」を疑うことです。
「人を疑う」のは、言ってみればその人に悪意、あるいは無知であるために疑うという感覚がどうしても拭いきれず、善良な人ほど難しいものです。
「言葉を疑う」のはどうでしょうか?「言葉」は正しくとも、その意図は様々であり、そしてそれぞれの正しさが込められています(悪意がないのならば、という前提はありますが)
正しさの裏には知った人にどう思ってほしいのか、さらにはどう動いてほしいのか、という意図、すなわち狙いがあります。その狙いを見つけられるまで、言葉を疑い続ける、それが「正しさ」を疑うということなのです。
そうすれば、建前上の正論や正義感に流されることもなく、そして不要に排除することもなく、認められる部分だけを認め、そして様々な考えを受けいられるようになるでしょう。
そして疑う力を高めるために、小説を読むこともまた推奨されています。(著者が自分が小説家だから勧めているだけだろとちょっと自虐してますが)
特に”疑う”ことがテーマとなるミステリー小説を勧めています。特に勧めているアガサ・クリスティで、この本の中でも多く勧めています。
作者が本の中で言うように、言った本人は正しいと思っていても言葉を口にした途端、つい、真実とは異なるものとなってしまう……そんな現象を嫌というほど体験でき、「疑う」ことの重要性、そして力を養うことができるとか。
ちなみにこの本には書いていませんが、私も小説、特にミステリーを読むことで正しさを疑うことの大切性を知ることができると思っています。
それは加害者がどうして「正しくないことをしなければならなかったのか」を知ることができるからです。犯罪は言うまでもなくやってはいけないことですが、そのあまりに常識的すぎることをどうしてやってしまったのか。
多くの本を読んできましたが、「私が登場人物の立場だったら同じことをしてしまうかもしれない」と悩んでしまうことが多くありました。
自分ごとになると、正しいことすら疑いたくなってくるはずです。もしかしたら、その経験は、「誰も救うことができない人」もっというのならば「救われないのが正しい人」すら救う事ができるかもしれないと思っています。
注意点
この本は優しいと書きましたが、このことについて一つ注意点があります。
”相手に悪意がある”という前提の話が一切ありません。
本当にそう思っているのか、あるいは、悪意を前提に考えないという作者様の信念なのかはわかりませんが、世の中は綺麗事だけではないのもまた事実です。
「正しさを疑う≠相手に悪意がある」とは限らないということは説明してきたとおりですが、一方で相手の悪意を見抜く力があるのもまた事実、そういった方面の説明は少しほしかったなと思います。
最も、そのような本は多く溢れていますからあえてこの本で望まなくても良いのかもしれません。もう一度言いますが、優しい本であることもまた貴重なのですから。
最後に
ぶっちゃけ言いましょう。
この本をすべての人が理解できるのならば私のブログは多分必要ありません。
それほど私が正しさというポジティブさの塊のようなものについて少し疑ってみることの必要性を非常によくまとめられた本でした。
さらに思ったことは、人の正しさについて理解を寄せるというのは、人の気持ちがわかるということの入り口であり、そして、自分の正しさを疑うということが、相手の正しさに理解寄せる第一歩ということではないでしょうか?
この本を読んで、歴史を学んで価値観を知り、相手の正しさと共存し、そして言葉の意図を探る……どことなく、「相手の気持を理解する」ことに重要なことが共通していることがわかるでしょう。
これが冒頭で言った「正しさを疑う」というのは優しさであるという言葉の答えになります。
もしこの本を読んで疑う力を養いたくなったらぜひ、ミステリー小説を読んでみましょう。
作者の方が推薦しているアガサ・クリスティ、あるいは当ブログでも何冊かオススメのものを紹介しております。(死神シリーズや、謎解きはディナーの後になどが特に初心者の方でもおすすめです)
ぜひ読んで、正しさを疑い、そして正しさを磨き続けてください。
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