GAGA公式チャンネル様より
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結論:悪が「奪う」とは限りません。正義が「作る」とは限りません。
最初に
「万引き」
軽犯罪としてあげられますが、やられる側としてはたまったものではありません。
一説によると、例えば本を一冊万引きされてしまったら、その被害を取り返すには四冊売らなければならないそうです。
商品を一つ売ることがどれだけ大変かなど説明するまでもなく、そもそもお金を稼ぐということは決して簡単ではないという大前提で考えれば決して許されることではないのです。もちろん、お金を稼ぐのが簡単な世の中になったとしても許されるわけではないですが。
相手にも複雑な事情があるのかもしれません。明日食べるのにも困っているのかも知れないし、どうしても欲しいという誰かのためにやっているのかもしれない。あるいは一般人には想像だいにしないことをやっているのかも。なんて言ったとしても「罪」であることには限りません。
とはいえ……。
もし「罪」をおかした人間のおかげで誰かが助かったとしてもあなたは完全にその人間を”悪い”と言い切れるでしょうか。彼らがいなかったら救われなかった命をなかったことにできるでしょうか?
非常に難しい問題です。
今回の映画はそんなテーマも考えながら紹介いたします
やや複雑な事情などもなく、たいした罪悪感などほとんど感じない、義賊的な悪でもないただ私利私欲のため、万引きを日常の糧とするため生きている家族、そして一人の少女の物語です。
誤解しないでほしいのですが、犯罪を助長しているような映画ではありません。かといって、正義を推奨しているような映画でもありません。
この家族を憎めと言いたいわけでも、この家族を哀れめといっているわけでもないです。
ちょっと普通とは異なる「家族」を見て、絆、罪、そして様々な「何か」を感じてほしい映画です。
あらすじ
物語はとあるスーパーから始まります。
柴田治と息子の祥太は店員たちの隙を見計らい、店の商品をばれないようにかすめとり、そのまま持ち帰ります。初めてのものではないどころか、ある意味ベテランと言えるものでした。
獲得物を楽しみながら帰路につく二人は家の前で寂しそうに震えている一人の少女を見つけます。もちろん他人事なので最初は放っておこうとしたのですがどうしても気になり家に連れて帰ることにしました。
少女は自分のことをゆりと名乗りました
治の妻である信代は誘拐だと非難しますが、金銭を要求しているわけじゃあるまいし、治は夕飯だけ食べさせて「すぐ返して来れば良い」と考え、信代の妹の亜紀、そして治の母の初枝とともに夕飯を楽しみます。
しかし、いざ返そうと少女がもともといた家の前でたてば、ゆりを巡って争う両親の姿、そして彼女の体にある虐待されていたと思われる無数の傷跡を見て、治は彼女の名前をりんに変え、髪型も変えることで家に置いておくことを決意します。
万引きを繰り返しながら他の仕事もこなしつつ生計を立てる一家ですが、それでも「家族」として、笑いあい、助け合ったりする側面があり、りんもまた楽しく暮らしていました。
そんなある意味、”万引き”された少女の生活、そしてこの家族にはとある秘密があり、やがて家族自体を揺るがしていくことになります。
おすすめポイント!
家族とは何かを考えさせられます。
「家族」に関しては前も語りましたが家族の定義というのは割と色々な人が好き勝手につけている場合も多いです。
どんなときにも助け合い、常に……というほどではなかったとしても仲良しであることを家族と信じる人、ただ血の繋がりをもってのみ家族と考える人、様々です。
家族として加わったゆりでありりんである少女は当然、血の繋がりなどありません。しかし、虐待されていた家族が家族といえるものだったかといわれると、また議論の余地がありそうです。
最初はぎこちなかったものの、次第に関係が深くなっていき、笑顔を絶やさない彼らの姿を見て、何も知らない人だったらやはり家族と認識してしまうのではないでしょうか?
一方、劇中のシーンでありますが、家族によくあるとある一つの言葉が言われない、というのは「家族ではない」ということを意味しているのかもしれません。
もちろん万引き、誘拐の罪は許されませんが、家族というものは善悪では定義されません。どうしても悪側にいるこの家族はほんとうの意味で家族だったのか……映画を見終わってもやはりまだ考えてしまいました。
ただ、一つだけ言えることは、全く血も繋がらない彼らの間には間違いなく、”絆”があり、それはキャッチフレーズにもあがる”家族のを超える絆”であったことは間違いないでしょう。
しかし、だからこそ、家族ではできないことができたのかもしれません。良くも悪くも。
「悪」はただ打ち倒せばいいというわけではないことがわかります。
最初に言っておきますが、どんなにあなたが苦しくても悪を認めろと言うつもりはありません。許せないものは許せないで構わないと思います。
しかし、認めたくないことはありますが、「悪」も世の中のバランスの側面を背負っている面はどうしてもあります。裏の世界のダークヒーローとか都市伝説じみた話ではありません。
例えば大きくの言うのであれば、災害は誰も嫌がり避けることに決まっていますが、災害のおかげで争いがなくなったという話は過去に暇がありません。
小さいところで言うのならば、飲酒運転は危険極まりなく、絶対許されないことですか、かといって重罪を課すことで強引に禁止してしまうと潰れてしまう飲食店が数多く存在する……という理屈もあります(この事実が書かれている本も近いうちに紹介します)
「悪いものは徹底的に排除しよう」となると、悪を完全に悪にしてしまい、悪が生み出していた一種の救いに目を向けることは難しくなり、新たに問題が生まれることがあるのです。
今回の話も同じです。
りんは保護され、少しだけ笑うようになったり、何かを楽しむような表情も見せるようになりました。もちろん誘拐も万引きも許されることではありませんが、ちゃんと問題を解決しないまま、「彼女を家に戻すべき」とはっきりいえる人がどれくらいいるでしょうか?
りんは少なくとも客観的に明確な「悪」によって救われたのです。
バランスを間違えるとこういった善の側面を盾にして悪事をなす本物の「悪党」が出てしまうわけですが……この人みたいに
テーマ「奪う」「作る」について
当記事のメインテーマです。
「奪う」ことと「作る」ことは全く関係がないようで「得るため」という目的は一致しています。
そもそも「奪う」という行為事態がもちろん強いネガティブ性があり、合法か否かを問わず、人に好かれることはありません(合法的な「奪うこと」の例は強引な企業買収などでしょうか)
そして、拾ったとはいえ、もともと人の家族である以上、ゆり(りん)のことを奪ったと言えるでしょう。
しかし、やはりゆりも含め、万引きだらけの悪い人たちのはずなのに、その楽しそうな雰囲気、そして感じる確かな愛は「奪われたもの」ではなく、「作り上げたもの」としか思えません。
しかし、やはり作られたものを奪われる可能性は誰にであります。奪う側の人間ならなおさらです。やはり、最後まで映画を見ると、奪うと作るには密接な関係があるとしか思えません。
そもそも人は本当に「奪う」ことを疎ましく思っているのか、「作る」ことを尊いと思っているのか、ゆりの本当の家族や、終盤に出てくる登場人物を見ているとわからなくなっていきます。
「奪う」「作る」の境界線は、人が思ったよりあいまいなものかもしれません。
ちょっとダメ出し
伏線と思わしき、意味深な表現がいくつかあるのですが、回収されてないものもあります。希望を与えるような表現ではあるのですが、少しスッキリしない部分があります。
最後に
タイトルがストレートに表しているようで、意外な意味を潜めている非常に深い物語でした。
「家族」は「家族」でしかないのであってその部分に正義や悪は関係ないのかも知れません。実際、法律上の問題で容疑者のアリバイに家族の証言は適用されないというものもあります。もっとも何度も書いてますが、彼らが家族だったのかどうかはやはり記事を書いていても、議論の余地がありますが……
最後に残ったりんのとあるセリフから、決して奪われただけではなく、彼女の中に作り上げられた何かはありました。それをただ「奪われた」と解釈してしまうことそのものが、人々から何かを奪っているのかも知れません。
たくましい家族と見るのよし、ただの犯罪集団としてみるのもいいと思います。しかし、複雑な事情が何度も絡み続ける彼らは、きっと見る人に様々な考えを思いおこさせるでしょう。
この映画を見て、何かを彼らに奪われるのか、それとも得られるのかは……それもやはりあなた次第かもしれません。そして、作中の「作る」「奪う」の境界線がわからなくなっていくようにやはり当事者しかわからないのです。家族の境界線が彼らと自分たちでわからないように。
しかし、もしその境界線がわかるようになれば、きっと彼らも、そして私達も救われる可能性を大きく広げられると思います。”家族を超えた絆”は例え悪でも善でも少女を救ったのですから。
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悪魔とのおしゃべり
「悪」の力について考えさせられる本の一つです。
『小説「8050」』
同じく善悪に、そして家族について考えさせられる本です。
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