p324(あらすじ込でp330)
こんな方にオススメ
- 「親子の物語が読みたい」
- 「ほどほどに現実的な話が読みたい」
- 「そうはいってもたかが子供……」
この本を読めば……。
子供って侮れない!!となります!!
最初に
「子供」
聞いてどんな印象を皆様は感じるでしょうか?
幼さ、力の無さ、軽率さ、未熟さといったネガティブなものから、未来、可能性、純粋、綺麗といったポジティブさもありますね。あえてネガティブから紹介するのが当ブログです。
一方で、ちょっとした天才と言われるような子供や、非常に大人びた子供に関してはネガティブさがなくなり、ポジティブさが強く強調されがちです。
立派過ぎる子供は大人と何が違うのか、周りの子供と何を変えるべきか、周りの大人達はどう接するべきか、正直ちょっと一般的な問題から離れていますが、考えるとなかなか難しい問題です。
さて、今回の物語は才能が色々な意味で並外れた子供、そして親が関わるちょっとだけダークでちょっとだけミステリーな話です。ネガティブさもポジティブさも感じさせますが、どちらを養うにも良い物語です。
確かに子供は生まれた時は純粋なのかもしれません。しかし、状況や環境によって子供がいつ純粋さをなくなるかはわかりません。
更に言うのであれば、決して曲がらないような頑丈で真っ直ぐな鉄棒を水の中に落として上から見たら曲がって見えるように、結局はどんなものも曲がって見えてしまうのかも知れない……というのは悲観主義が過ぎるでしょうか?
とはいえ、子供の純粋さが時に、この世の何よりも歪んだ物体に見えることもあると思います。
読みながらじっくり考えていきましょう。
さて、今回は短編集なので、それぞれちょっとずつ紹介していきます。
砂のお城の王女達
あらすじ
小学生である由花を娘に持つ母親、葉子は「親友である貞子の家に泊まる」と娘に言われて一人で家にいました。しかし、急な用事ができたので、すぐ家に帰ってくるよう、貞子の母親に電話をかけます(※注 時代背景的に当時はまだ携帯電話がなかったみたいです)なんと驚くべきことに、貞子の家では、由花の家に二人で泊まることになっていました。つまりお互いの家に泊まるとそれぞれお互いの母親に嘘をついていたのです。更に聞いてみれば、お互いの家に彼女達二人を宿泊させたことは一度もないことがわかったのです。母親たちは彼女達がどこへ行ったのか探し始めます。
一方、仕事で長く、海外に出張していた青年、山辺吉生は自分の部屋が非常にきれいに片付けられていることに驚きます。そして、部屋のなかで立っている二人の少女を見つけました。まさにその二人こそが由花と貞子だったのです。
「私達の家に勝手に入らないでよ!!」と怒鳴られる青年(家主)、これからどうするのでしょうか……。
秘密基地、冒険、そして犯罪
二人の少女にとってはこのちょっとした秘密基地作り、冒険、そして犯罪は現実からの逃避でもあります。
親、教師、その他大人は基本的に冒険を許容しません。多分、私も誰かに「冒険したい!!(犯罪)」を言われたら止めるか見てみぬふりをしてしまうだけだと思われます。そして、日常に不満があるほど冒険に憧れるというのは何かと共感できる話なのではないでしょうか?ゲームや本などに現実逃避してしまう人間と重なるものがあります。
しかし、彼女達は才女、ただ与えられるだけではなく、恐ろしく賢く、言い換えれば狡猾とも言える手段で冒険が出来る場所を作り上げ、守っていくことになります。
正当かどうかはおいといて、犯罪と一言で切り捨ててしまうか、冒険という言葉で美化するかは読者次第です。最も、結局は少女らしさを捨てきれない微笑ましさも感じましたが、この感情が悪いものなのかと考えると無限ループに入ってしまいそうです。
神童
あらすじ
何の変哲もないサラリーマンである文明はある日、息子である久哉が通わせてもいないピアノ教室で、全く教わっていないのにも関わらず、先生が思わず教えたいと思うほどのピアノの才能があることを知ります。
そして、久哉の才能を知った周囲の期待は様々な形になって現れていき、純粋な称賛、才能への僻み、そして利潤への追求と繋がっていく中で、親子は何が本当に子供のためになるのかを悩んでいくことになります。
神童……すさまじく貴重な存在であり、そしてすさまじく厄介事を引き寄せる性質となることを両親は思い知るのです。
そして最後に二人が久哉のために出した結末とは……。
期待は善か悪か?
才能溢れた子供を見ると、人……というより大人は異常なほど期待してしまうものですね。まあ面白半分なのか、本気で応援しているかは賛否両論あると思いますが。
身近なところでは、ドラマの天才子役、あるいは若いオリンピック選手が典型例でしょうか?そして、期待は様々なものに形を変えるものです。とはいえ、正直、信憑性もなければポジティブさも感じさせないものも多く、中には応援と偽ったもう少し醜い何かを感じずにはいられません。
色々難しいですが、結局のところ、子供のうちは間違ったことでなければやりたいことをやるのが一番よいと思います。やめたくなったらやめればよく、やめづらい状況を作らないようにしたいものですね。
ちなみに最後の父親の言葉は思わず「え〜……」となるでしょう。
僕らの英雄
あらすじ
近頃、小さな事件が頻発するとある街のお話です。
優等生であり、ある日、婦人を助けたことで記事にされるほど周囲からの人気ものである戸張啓二、彼と仲良しでいられる長沼恭子はちょっと得意げに感じつつ、一緒に、本屋で問題集を見ていました。
しかし、恭子は啓二が主婦のカバンに本を滑り込ませ、万引きをなすりつけているのを見てしまいます。大騒ぎになっても平然としている啓二を見て、警察に言うことも少年の父親に言うことも考えられなかった彼女はひとまず青年の姉である弓子に相談することにしました。
優等生だと信じていた弟の信じられない極悪な行為……しかし、様々な繋がりがやがて引き返せないところまで広がっていき……。
信じて裏切られるのは信じたから
人を信じたいというのは尊いことですが、強すぎて危険なものはありません。
優等生をホイホイ信じてしまうというのは人が愚かな証でもあり、そして仕方ない真理でもあります。人は常に権威には弱いもので、恐ろしい権威を持った人が何かを始めた時、ハッキリ言って内容なんてたいしたことなかったとしても(してもですよ?絶対そうとは言いません)ある程度の人間は集まるでしょう。
ましてや、権威の持ち主が子供だった場合、大人よりもより信頼度が高く、より威光が強くなり、より人が集まるのではないでしょうか?最もそこには「子供だから……」という侮りがあるかもしれません。
「あの人の言ったことならなんでも正しい」ということは常に恐ろしいものです。より厳密に言えば、「あの人の言うことは間違ってない、間違っているのはお前だ」と仮に子供が突き返されたら返すのは簡単では有りません
あらすじで紹介できるほど、啓二の悪行は物語の序盤でわかり、それからまんまと振り回されている大人たちを見ることになるわけですが……全て読み切っても大人たちを愚かだと笑えるでしょうか?
ゲームはおしまい
あらすじ
真面目過ぎる少年、元久は音楽の指揮者をしています。彼の両親、特に母親は真面目すぎることから孤独になっていないか、問題が起きていないかを心配していました。
実際、真面目過ぎるところからややいじめに近い状態になっており、母親の心配はさらに強まっていきます。そしてある息子の行動と言葉から、子どもたちの問題に介入することを決意します。
しかし、問題の中心である谷口君がそのままにすることもなく……。
大人ができないことが子供に出来るとでも?
これまでとは違い、やや普通の少年が登場します。エピソードも似たような体験をした方も多いのではないでしょうか?
子供の問題にどれだけ大人が介入するか……というのがテーマの一つでもあります。
子供の力だけではどうもならず、大人の力を使っても根本的な解決にはなりません。一番いいのは自分たちで成長しながらちょっとずつ解決するというものですが……他ならぬ大人が許さない気もしますしちょっと時間がかかりすぎるのが問題でしょうか。
元久はどうやって解決するのか、母親はどういう行動にでるのか、短いながらも目が離せない物語です。
しかし、オラオラいう子は個人的に好きではないというのは変わりませんが、一緒に合唱するというのはやたら学生のうちにやらされる印象があります。好きだったらうれしいのでしょうが、私の場合正直、子供の時もやりたくありませんでしたし、今もやりたくありません(カラオケはいいですが全く別のものですし)
やりたくないことを無理やりやらせるのはそれはそれで問題です。大人になったら必要になるからという人もいますが、持論で言うとやりたくないことというのはやりたいことをやるための準備のために存在するべきだと思います。
ちなみに5つの話の中では、タイトルで内容をつかみづらい話かもしれません。
真夜中の子どもたち
あらすじ
会社の倒産に巻き込まれ借金をしてしまうことになった男、池谷和哉は、ひょんなことから叔父より70万円を受け取り妻子のもとへ帰ろうとします。
しかし、困っている女子学生に声をかけられ助けを求めることになります。娘のことを考えると放っておけず助けることにしました。
しかし、それは子どもたちの恐ろしい罠でした。大人が考えもしない……いや、大人が子供だったらやらないだろうと思うような狡猾な方法で。
普通は逆ですけど、それが狙いです
ミステリーというにはやや単純かも知れません。まあ要するに「逆」というだけでほかは全部ストレートな犯罪行為なわけですが、こんな簡単なことでも人は騙されがちです。
やはり「子供をこんなことをするわけない」とか「常識的に考えて」みたいな先入観が先行してしまうのでしょうか。先入観、言い換えれば経験ともいえる力は時に人の考えを邪魔するのです。
5つの話の中でも特に恐ろしく、そして残忍な計画はあなたを震え上がらせるでしょう。
ただ、個人的に少し厳しく言うのならば……ちょっと父親である和哉は軽率過ぎるところがあるかも知れません。子供といえど、大金をもっている状態でむやみな寄り道をするべきではありません。助けるにしても警察などに任せたほうが良かったのでは……?と思いました。最も大人として子供の手助けをするというのは善の思考でありそこまで責められるいわれもないかもしれませんが、それでもちょっとこれも一つの「子供を見くびっている」と考えてしまいます。
というわけで結論ですが、物語全ての人間に言えることは唯一つです。「子供を見くびってはいけません」全ての子供が純粋で正直で優しいなんて……所詮大人の”甘え”でしかないのですから。
最後に
私は自分の子供がいないですが、子供という概念ならわかります。(子供に近い大人みたいなもんですし)子供を理解するには子供に視点を合わせるしか有りません。子供を見て可愛いと思ったり、彼らの好きなものを見て微笑ましいと思うことは一見ポジティブなように見えて、彼らをどこか下に見ているというネガティブさもあります。
誤解がないように言っておきますが、決して下に見ることが悪いとは言いませんし、ましてや上に見ろと言っているわけでは有りません(私じゃあるまいし)
そうではなく、対等になってこそ、理解の姿勢が成り立つのです。「理解する必要はない」という意見もありますが、子供に限らず、人は誰かに「理解してほしい」と考えることは多いと思います。
もし、子供と対等に立つのが難しいのであれば……この本に出てきた彼らのような天才から考えて見ても良いのかも知れません。自分たちの子供時代などと重ね合わせると、下に見ることは難しくなるでしょう。最も立場的に対等に見やすいのであって才能や異質感などに注目してしまうと、余計距離をおいてしまう可能性がありますが……。
私の好きな言葉に「後進畏るべし」というものがあります。もし、そのおそろしき後進の力を求めるのであれば、彼らに教えを請うのが一番であり、大いに成長の道を歩めることになるでしょう。
そして、もし彼らが危険な道を進もうとしているのならば、自分の、あるいは本、映画、あるいは私のようなブログを書いている人たちから教えて、考える参考になるよう手助けしてあげることです。
子供と大人……そんな対等でお互い高めあえる関係があったら、素晴らしいとは思いませんか?当本のように才能や危険さがちょっと強すぎる子供に対してできるかはわかりませんが、もしできたら人はより成長できるかも知れません。そしてそのためには子供を認めるポジティブさと同時に、子供と目線を合わせるためにある程度、ネガティブさも必要なのだと思います。
ちなみに「子供と自分を対等に見る」という理論についてもっと知りたい方はこちらの記事と本がオススメです。
もう一つのテーマ
「甘え」ですね。”大人の”でしょうか?”子供の”でしょうか?ぜひ、読んで判断してみてください。
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